上杉教朝是什么意思(中文簡介)
上杉教朝(うえすぎ のりとも),1408年(應永15年)—1461年 (寬正2年)),室町時代人物。官至治部少輔、伊予守、關東執事(堀越公方)。犬懸上杉家出身。身為常陸國人?大掾滿干的養子。父親上杉禪秀發動上杉禪秀之亂,導致一族多戰敗死亡或自殺。與兄弟上杉憲秋、上杉持房等逃亡京當了和尚。后還俗,并在永享之亂和結城合戰中與其兄率領幕府軍隊立下赫赫武功。其后,與涉川義鏡共同陪同新鐮倉公方足利政知(替代享德之亂被流放的鐮倉公方足利成氏)進入鐮倉。由于關東長期戰亂,政局不穩,足利政知留在堀越成為堀越公方,上杉教朝擔任關東執事。
上杉教朝是什么意思(日文簡介)
1408-1461 室町時代の武將。
応永15年生まれ。上杉禪秀の子。父の挙兵(上杉禪秀の亂)失敗後,兄憲秋とともに京都にのがれ出家。將軍足利義持の命で還俗(げんぞく)して永享の亂や結城(ゆうき)合戦にくわわる。長祿(ちょうろく)元年堀越公方(くぼう)足利政知の執事となる。寛正(かんしょう)2年疫病により病死,あるいは自殺したといわれる。54歳。
応永15年生まれ。上杉禪秀の子。父の挙兵(上杉禪秀の亂)失敗後,兄憲秋とともに京都にのがれ出家。將軍足利義持の命で還俗(げんぞく)して永享の亂や結城(ゆうき)合戦にくわわる。長祿(ちょうろく)元年堀越公方(くぼう)足利政知の執事となる。寛正(かんしょう)2年疫病により病死,あるいは自殺したといわれる。54歳。
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